第21号 ~ 気血津液(2007年7月)
あるヒトが横たわっています。
さて生きているのでしょうか、それとも死んでしまったのでしょうか?
もしそんな場面に出くわしたとき、私たちはわざわざ脈拍をとらなくても、あるいは息をしているのを確認しなくてもその答えを感じとることができるのではないでしょうか。
なぜなら、死者にはすでに「気」を失ってしまったからです。
このように気とは感じるものなのです。
いまの時代、感じることしかできない気について深く語ることは、とてもうさんくさく思われてしまいます。
ですから気については、「気になる人」、「気のおけない仲間」、「気に食わない」などの抽象観念でなんとなくご理解していただければ十分だと思います。気は感じるもの、それ以上でもそれ以下でもありません。
さて東洋医学で用いる「気」の意味合いは、日常的に使う「気」とは趣が異なります。
気は感じるだけのものではありません。
気はからだを形づくる原材料そのものなのです。
物質的にしっかり存在するわけです。
そして、そのはたらきによって私たちは話したり、歩いたり、体温を保つなどして生命を維持している、と定義されています。
また気には、強いエネルギーをそなえ、常に運動しているという特徴もあります。
東洋医学では、食事をしてからだが大きくなる、便が出る、あるいは水を飲んで汗をかくなどの生命活動は気の運動して変化していく過程としてとらえています。
もしこのような気が不足すると、疲れやすい、疲れると症状が悪化する、持続力がなくなるなどの症状をあらわします。
また気と同じようにからだを形づくるものに、血(けつ)と津液(しんえき)があります。
血は血液とほぼ同じようなもので、栄養素を豊富に含んでいます。
全身に張りめぐらされた血管をめぐり、からだのすみずみにまで栄養をあたえます。
現代医学的な血液と意味合いが違うところは、精神活動をするときの重要な栄養源になる、というところです。
ですから東洋医学的には、血が不足すると栄養不足による痩せ、立ちくらみ、手足のしびれや情緒不安定、不安感、不眠などの精神的なやまいを起こす、と考えられます。
津液は、からだに必要な水液のことを言います。
皮膚に潤いを与え、関節の動きを円滑にします。
また腸壁などの粘膜に適度な湿り気をあたえることで排便をスムーズにします。
このような津液が不足すると、皮膚がカサカサになる、よく関節がポキポキと鳴る、コロコロ便などの症状をあらわします。
このような気血津液(きけつしんえき)は、五臓六腑が協力することで生産されています。
それと同時に五臓六腑は気血津液がたえまなく流れこむことで、栄養分をもらい、養われてもいます。
東洋医学的にみると、生命活動は気血津液と五臓六腑がギブアンドテイクの関係を保ちながら維持されています。